CBNからの覚書き

カラービジネス業界での経験の中から、覚えておきたい出来事や伝えておきたい内容などを自由に書き連ねる頁です。

カラリストの系譜

私がファッション業界、正確には繊維業界に位置する東レ㈱のファッション・セクションに就職したのは、1975年。すでに『シャーベットトーン』などのカラーキャンペーンは沈静していましたが、ファッション業界の成長期として、業界挙げて当該シーズンの・・・   山内 誠

日本における「カラリスト」雑感

カラリストという言葉を初めて聞いたのは、私がJafcaに入って間もない頃だった。1979年と記憶している。「colorist」という英語は昔からあり、意味は「色彩使いに優れた画家。髪の染に特化した美容師。」とある。      大関 徹

日本色彩研究所からの覚書き

色彩研究所の創立が昭和2(1927年)でそのきっかけが、和田三造初代理事長が若かりし頃、国費留学でフランス行ったとき、フランスで見聞きした色彩事情に感銘を受けたことだと過去の文献にあります。           赤木重文



地方色を探して

1960年代中頃まで、日本の建築物等の色彩計画は、戦後アメリカから導入されたカラーコンディショニングという手法が使われていました。これは色彩の機能主義的な考え方で、工場等の建築内部で人がより効率的に働けるように考え出された手法でした。       吉田慎悟


カラリストとして歩き始めた頃

これまで、日本の環境色彩計画の覚書として、重田さんとランクロさんのことを書きました。その頃の僕の仕事についてもここに記録しておきます。と言っても自分のことを書くのは苦手なので、当時の僕の仕事について・・・   吉田慎悟

環境色彩計画の夜明け

建築色彩を機能主義的な考え方で進めたカラーコンディショニング(色彩調節)が衰退していく1960年代の中頃、入れ替わるように建築外装に高彩度色を大胆に使ったスーパーグラフィック運動が起こりました。           吉田慎悟


基礎デザイン学と色彩

武蔵野美術大学の基礎デザイン学科は1967年に創設されましたが、僕は1968年に、この学科に二期生として入学しました。基礎デザイン学科は、デザイン科志望の学生の偏りを失くし、より広く人材を集めるため・・・      吉田慎悟

パリのランクロさん

 

カラーデザインを学ぶために、パリのランクロさんのアトリエに行ったのは1974年のことでした。

パリのポルト・ド・ラ・シャペルにあったアトリエ“3Dカラーに通い始めて間もないある日・・・        吉田慎悟



テキスタイルの色

私が1975年から合繊メーカーで、色に関わる仕事をスタートしたことは「カラリストの系譜」で述べましたが、仕事の初日に、当時の課長で業界でも色彩の権威

と言われていた松田豊さんからプレゼントをいただきました。    山内 誠

10万色の幸福

1975年当時、東レの繊維事業本部におけるファッション・セクションには、色指定に使うための、色生地の細片が十数から数十貼られたA4台紙が色相やカラーグ

ループ別にファイルに収められた大量のカラーストックがありました。山内 誠



“カラー戦略”とは一体何だったのか

1980年代後半、多くの企業がこぞって取り組んだカラー戦略。当時を振り返りながら、その目的と役割を改めて考えてみたい。

色を戦略的に考えるということはどういうことなのか。       宮岡直樹

韓国人デザイナーとのガチンコ勝負

2011年、韓国の大手電機メーカーから複合機とプリンターのカラー提案の仕事が舞い込んだ。先方の部長から「外観の色をなんとかしろ」と指示があったそうだ。日本の製造業の国際競争力が低下する中で、当時も今も・・・   宮岡直樹