色とは?

DICカラーデザイン株式会社  川村 雅徳

 


1.色と心

「色とは?」

こんなことを真剣に考えたことがある人は少ないでしょう。
私たちは、色に囲まれて生活しています。それはあまりに普通のことです。何かの機会がないと、その存在について真剣に考えることはありません。しかし、当たり前の存在は失くしたときに、そのありがたさを痛切に感じるものです。
本連載では、さまざまな切り口から、色の存在を考えてみたいと思います。

 

1回目は「色」を「カラー」という意味でとらえ、色の存在を考えてみましょう。モノクロでなく、「カラフルな色とは?」と、いった方がわかりやすいでしょう。

生活の中から色を失くすことはそうそう体験できませんが、そうした稀な機会が終戦後の風景でした。もともと終戦間際の日本は「贅沢は敵」「欲しがりません。勝つまでは」という標語からもわかるように、彩りがあるような暮らしではありませんでしたが、敗戦を迎え、辺り一面ががれきで埋め尽くされた焼け野原は、まさにモノクロの世界と化しました。焚火の後の風景があたり一面に広がっていたと想像してみるとイメージしやすいかもしれません。

こうした事態に陥った時、人々はカラフルさに憧れの念を抱くようになりました。「カラフルさ」の象徴は「アメリカ」です。日本を占領したアメリカの、物質的にも、彩り的にも豊かな生活は、日本人の目標となりました。こうした意識を核に、「消費は美徳」という掛け声のもと、日本は高度経済成長期を迎えたのです。今日、レトロ家電、レトロ家具といわれて懐かしがられているプロダクトが総じてカラフルなのは、こうした背景が生んだ産物だからなのです。

これまで、戦後の事例でカラフルさのもつ力の一端を伝えてきた筆者でしたが、近時同じような風景を目にしました。3.11の大震災後の津波によって、言葉を失うような被害を受けた被災地です。人影もなく、彩りも消えた世界は、まるで終戦後の光景を連想させるものでした。

それからしばらく経って次のような記事を目にしました。「被災地をヒマワリ畑に 陸前高田で住民ら種まき」。陸前高田だけでなく、「被災地にヒマワリを」という活動は広がっているようです。力強く太陽に向かって伸びていくヒマワリ畑の黄色は、被災者たちを元気づけるに違いありません。生命力あふれる花の色の美しさは人々の心に沁みわたることでしょう。その上、ヒマワリは土壌のセシウムを吸収する機能的な役割も果たすといいます。ヒマワリの彩りは心理的にも、科学的にも、被災地を救う存在となるのです。

かのピカソは、祖国スペインの内戦の惨状を「ゲルニカ」という作品で描きました。ご存知の方も多いと思いますが、この作品には色が使われていません。彫刻家ムーアが「なぜ色を使わなかったのか」と訊ねたところ、ピカソはこう答えたといいます。「色彩はある種の救いを意味してしまうから」と。つまり、絵から救いを拒絶するために色を用いなかったのです。

普段、仕事の中で何気なく色を選んでいたり、指示だからと何も気にせず塗っていたりということがあるかもしれません。しかし、その色は周囲の環境やエンドユーザーをどんな気持ちにするのだろうか? ホンの一瞬でもそうしたことを考えるクセをつけると、色に携わる仕事の魅力が再認識できるとともに、お客様の笑顔を思い浮かべられるようになるかもしれません。



2.色とかたち

1回目は「色と心」というテーマで、普段はほとんど意識されないであろう色の役割、色の大切さの一面をお伝えしました。第 2回となる今回は、「デザイン」と色彩のかかわりという面から、「色とは?」を考えてみたいと思います。

 

色とかたち

狭義で「デザイン」というと、モノの「色・かたち」のことを連想すると思います。では、「デザイン」において、どちらが重要だと思いますか?もちろんどちらも大切なのですが、色の重要性が増しているのがデザインにおけるマクロトレンドのように思えます。

しかし、こうした見解に違和感をもつ人は多いでしょう。なぜなら、「デザイン」を考える時、デッサンにしても、立体物をつくる場合の石膏にしても、基本となるのは「陰影(無彩色:白~グレー~黒)」でかたちをとらえることだからです。「基本」というのは、どんな事柄であっても核となる要素のことですから、「基本=重要」という認識は普遍性をもちます。

デザインにおいて「色」が意識されるようになるのは「かたち」が完成した後で、「十人十色」という言葉に象徴されるように、ある一つの理想、あるべき姿に絞り込むべきものとは思われていません。つまり突き詰めて考えても一つの結論にたどり着かないものと思われています。結果として「深く考えなくてよいもの=重要ではない」という認識が多くなります。少なくとも、デザイン教育の世界ではこうした認識が主流だと思います。

生活者も同じでしょうか? 日常生活の中で「色とかたち」について考えてみましょう。

よく、自分の奥さんが髪型を変えたのに旦那様が気付かないという話を聞きます。それに比べ髪を染めたのに旦那様が気付かないって聞くことが少ないと思いませんか?

もちろん、ロングヘアーの人が超ショートにしたといったダイナミックなかたちの変化と、もともと茶髪の人が若干明るい茶色に変えたといった小さな色の変化を比較すれば話は別でしょう。客観的に論じるのであれば、色とかたちの変化量の平等性といった学術的なことを知る必要があるのでしょうが、日常会話の中では、かたちよりも色に対する意識が高いように思われます。

私の商売柄かもしれませんが、ファッションでも、家電でも、売場で「このかたち綺麗!」という声より、「この色素敵!」の方を圧倒的に多く耳にします。

ある本によると、人は「色型人間」と「かたち型人間」にわかれるそうです。ある絵を最初に見て、次に色とかたちの要素の両方を変えた絵を見せます。その際に、第一に「色」に気づくか、「かたち」に気づくかで、「色型人間」「かたち型人間」を判断するといったことが書かれていました。実験によると、女性に「色型人間」が多く、男性に「かたち型人間」が多いということでした。あなたは次のページの絵を見て、色とかたちのどちらの変化を最初に気づいたでしょうか?

デザイン界には「形態は機能にしたがう(FormFollowsFunction)」という有名な言葉があります。近代建築の祖といえるバウハウスが提唱したデザインコンセプトです。バウハウスは、合理主義的、機能主義的な芸術活動を行っていた、20世紀初頭にあったドイツの学校ですが、今日でも根強いデザイン観だと思います。

こうした連綿と続いているデザイン観に加え、昨今はデジタル技術の高度化が進んでいます。グローバルレベルで、「効率化」「合理化」といった「左脳」性を是とする時代の流れがあります。デザイン界でも、「感性」という「右脳」的な認知を工学的に研究する傾向が強まっています。

結果として、かたちの振れ幅は狭まっている気がします。特に、機能的に成熟した工業製品においては、かたちでの冒険が難しくなってきているように感じます。それに比べ、色の振れ幅は狭くなっていません。逆に色材や技術の進歩によって色表現は広がってきているのです。

また、人は無いものねだりであり、かつ、振り子の法則と呼ばれるように、ある方向に事象が傾いたときには、均衡を保つために、その反対の動きが生じるものです。「左脳」偏重のトレンドは「右脳」的なものを求める原動力となるでしょう。

もともと、色は左脳的デザイン要素でなく、右脳的デザイン要素として活用されるのが中心です。バウハウス的のコンセプトをなぞらえるなら「色は感性にしたがう(ColorFollowsEmotion)」といえます。色の重要性が増していると私が感じる背景にはこうした所感があります。



3.色と光

1回目は「色と心」というテーマで、心理的な面からの色の魅力の一面をお伝えしました。第 2回は「デザイン」と色彩のかかわりという面から、「色とかたち」について考えてみました。今回は、色彩という知覚現象にとって欠かすことができない「光」と色のことについて考えてみたいと思います。

 

色の正体

色は目で見るもの。匂いは鼻でかぐもの。音は耳で聞くもの。こうしたことは誰もが知っていることです。では、目という器官は何を感じとっているのでしょうか?

答えは「光」です。では「光とは?」。

光は電磁波の一種で、目が感じることができる電磁波の領域を「可視光線(かしこうせん)」といいます。文字通り、「視ることが可能な光」という意味で、色の範囲としては、俗に「赤橙黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)」と言われます。虹の7色と言われる色がそれに相当します。光をプリズムで分光して、虹の 7色が見えるという実験は理科の教科書か何かで見たことがあるのではないでしょうか?

この実験からわかることは、一見、色を感じない光の中に、実はさまざまな色が含まれているということなのです。こうした光を「白色光」といいます。

可視光のすぐ外側には、日常生活でもよく耳にする「赤外線」「紫外線」という光があります。これらも文字通り「赤の外側の光線」と「紫の外側の光線」という意味です。赤外線というと、「赤外線ヒーター」「赤外線センサー」という言葉をご存知かと思います。また紫外線というと、基礎化粧品の「UV(紫外線)カット」機能という言葉に馴染みがあるでしょう。ちなみに UVとは「ultraviolet(ウルトラバイオレット)」の略語です。赤外線も紫外線も、通常は視ることができない光、つまり不可視光線ということになりますが、その存在は誰もが知っていると思います。

光の中には、目で感じることができる光(電磁波)と感じることができない光とがあるのです。

では、なぜ、リンゴは赤く見えるのでしょうか?

それはリンゴという物体の表面が、可視光線の中の色成分のうち、赤い光の成分を多く反射して、それ以外の色の光の成分を多く吸収する性質があるからなのです。
(下図参照)

 

 

私たちは、そのように選択されて反射した可視光線を「目」という器官で感じとっています。その感覚が「視覚」と呼ばれる知覚で、色はその中の一つの要素というわけです。

ですから、私たちは光がないと色を感じることはできません。完全な暗闇では、視覚は機能しません。至って当たり前のことですが、光がないと視覚が機能しないという事実を改まって考えることは少ないので見過ごされがちなことかと思います。物体の色は、光と物体と目という三つが揃って成り立つ現象といえます。逆にいえば、それらのどれかが変化すると、色は変化してしまいます。

 

光のクリエイション

「白色光はカラフルな色の集まりである」。こうしたことは普段は全く意識しないことだと思います。だからこそ、改めて意識してみることに意義があるのです。

2010年の春、こうした想いを鮮鋭に感じさせてくれた展覧会が韓国・ソウルで開催されました。「TokujinYoshioka_SPECTRUM」です。実際に足を運べなかったのが悔やまれるのですが、その魅力はメディア情報からも十分にうかがうことができます。吉岡徳仁さんの個展である本展では「虹の教会」建築プロジェクトの一部がインスタレーション(美術展示)として再現されました。

excite.ism」の記事によれば、1本あたり約 45kgのクリスタルプリズム 500本を、ひとつひとつ手作業で積み重ねて、高さ約 9m、幅約 1.6mのプリズムの塔を、ステンドグラスとして機能させたインスタレーションということです。500本のプリズムによって多様に分光された光の表情が真っ白い空間に虹色の光を映し出すのです。

かつて安藤忠雄さんは、「光の教会」を大阪に建築しました。この教会では壁一面に設けられた十字架状のスリットを通った光によって、「光の十字架」が表現されていました。建築物自体は安藤忠雄さんを象徴する打放ちのコンクリートで、通常の教会にある聖母像やイコンもないミニマルな空間ゆえに、この光の十字架は「光」の存在を再認識させてくれるクリエイションだと思いました。

 

希望の色

吉岡徳仁さん、安藤忠雄さんのクリエイションを引用するまでもなく、「光」といえば、私たちに「希望」を連想させます。しかし、カラフルな色の集まりが白色光という光であるように、「希望」自体には「色」はないのかもしれません。

色を生じさせるのはプリズムやリンゴといった物体であり、それをなぞらえれば「希望」に彩りをあたえることができるのは私たち一人ひとりという存在なのだと思います。私たちは白色光という希望の光を受けて、人それぞれ異なる光を放ち、そこに彩りが生まれ、自分の「心」という目で、希望の彩りを感じるのだと思います。それぞれの物体がさまざまな色の光を放っているように、私たちが心の目で感じる希望の色は、実は自分自身が自分を変化させていくことで、いかようにでも美しく変えていけるのでしょう。



4.色と目

「色と心」「色とかたち」「色と光」というテーマで、「色とは?」を考えてきた本連載ですが、最終回となった今回は「色と目」をテーマに、色の存在を改めて意識していただければと思います。

 

いろいろな目

前回、物体の色を見るためには、「光と物体と目」の三つが揃わなければならないとお伝えしました。その一要素である「目」は、人によってさまざまな違いがあります。分かりやすいのは、視力の違いでしょう。背丈の違いは一見して分かりますが、視力は一見では分かりません。メガネをしている人がいれば、「この人は視力が低いのかな」と推察することができます。しかし、今日ではコンタクトレンズをしている人も多くいるので、メガネをしていなくても視力の低い人は大勢います。外見からは目の違いを推し量ることは難しいといえるでしょう。

目の違いは、視力に限ったことではありません。目の疾患や遺伝子の特性によって、色の見え方が一般の人と異なる人が日本に 500万人以上存在しているといわれます。足のわるい方なら車いすを使っていたり、極端に視力が低い人であれば白い杖をもっていたりして傍からも気づき、自然と配慮しようと思いますが、色の見え方が一般的な人と異なる「色弱者」の場合、外見から気がつかないのです。

「色弱者」という言葉もあいまいです。NPO法人カラーユニバーサルデザイン機構(CUDO)では、色彩情報コミュニケーション社会における弱者という意味で「色弱者」を提唱していますが、俗に言う「色弱」は、「色盲」という言葉がもつ蔑称性を避けて表現する意図で使われるのが一般的でしょう。ですから「色弱者」という言葉も、人によってその意味するところは異なっているのが現状です。CUDOでは、色の感覚(色覚)も血液型と同様に生まれつき決まっていることから、色覚の違いを、血液型のように、一般色覚者を C型(Common-type)、色弱者 を、P型(Protanopia)、D型(Deuteranopia)、T型(Tritanopia)、A型(Achromatopia)と 類しています。

かつて日本眼科学会では、「色弱」「色盲」という言葉が、色覚の分類に使われていましたが、2005年には用語が改められ、「色弱」「色盲」という言葉は用いられないようになりました。

ここでは大多数の方と異なる色覚特性をもつ人の総称として「色弱者」という言葉を用いたいと思います。

 

識別性による意味の伝達

色は、識別性という機能をもっています。識別性とは、言葉にすると難しく感じますが、赤色と青色は違うというように、知覚によって区別ができる性質のことです。この性質を有効に使用している代表例には、鉄道の路線図や信号機などが挙げられます。多くの人がその色を見ただけで何線かを認識したり、「進め」「止まれ」という意味を受けとったりします。

多くの人にとって普通に受け止めている、色の識別性を通した意味ですが、色弱者の方には、とても識別しづらい色の組み合わせがあります。色覚特性が異なるのですから、致しかたない面もありますが、そのことで生命の危険を招くようなことがあっては、致しかたないではすまされません。

そうした意識の高まりもあって、近年、「色のバリアフリー」「色のユニバーサルデザイン」に対する取り組みが多く見られるようになってきました。国や自治体でも多くのガイドラインが策定されるようになっています。

DICグループでは、東京大学伊藤啓准教授、社団法人日本塗料工業会、石川県工業試験場前川満良氏、CUDOと共同で『ユニバーサルデザイン推奨配色セット』を開発しました。これは、色によるグラフや図表、サイン、案内表示といった用途におけるユニバーサルデザインに役立てるために作成したものです。

トイレの男女情報を意味する青と赤、蛇口の冷水、温水を意味する青と赤など、私たちの暮らしの中には、色自体に意味をもたせて使っていることがたくさんあります。読者の皆さまも意識せずに色から意味を受けとっていることと思います。これからは生活の中での色の意味を意識してみると、色の識別性が担っている役割の大きさをご理解いただけると思います。色のそうした役割を知っていただくことで、色のユニバーサルデザインに対する理解が得られやすくなり、より多くの人々が快適に過ごせる色彩情報コミュニケーション社会が近づくのだと思います。