私の“色の道”といえるものは、武蔵野美術大学の基礎デザイン学科 という少し変わった?学部で、「視覚方法論(Visual-methodology)」 という講義の中で色彩に触れたところから始まりました。 次いで、今でいう「色彩心理」を最終学年でのゼミで学びました。
卒業後は、合繊メーカーのファッションセクションで「ファッション」と「流行色」に 絡んだ業務を行いました。その後、文化団体で生活文化の啓発に努める傍ら 、「カラービジネスネットワーク(CBN)」というカラービジネスに 関わる活動を推進することになりました。
今回の一連のセミナーは、「色とは何か? 私的色彩論の展開」の テーマで、CBNのプロフェッショナル達にそれぞれの“色彩観”を コンパクトに語っていただくことを狙いにしています。 そんなプロフェッショナル達の中に事務局の私が加わるのは いささか心苦しいものがありますが、これも他人にお仕事を 強いた報いとあきらめて・・・、筆を進めてまいりましょう。
●色とは何か ① : DNAに刷り込まれた色
色彩の世界では、青と赤が世界的に好まれる色の1、2位を占めています。 青はより男性に好まれ、赤は逆により女性に好まれています。 この赤の嗜好については、昔々のご先祖様達は、主に男性は狩猟、 女性は採取生活をしている中、多くの果実の成熟色には赤が多いので、 女性は赤という色を嫌わないのだろうとする説があります。 この説を参考にすれば、青については、狩猟には晴れた日のほうが好都合ですし、 川や海にから食料が取れるとなれば、男性は空や水の色である 青を嫌わないだろうと了解できます。現在、赤色の識別が困難な男性が、 狩猟・牧畜文化を基底とする欧米の男性で約8%、農耕文化を基底とする 日本を含むアジアの男性が4%程度であることは、動く動物を見つけ、 追跡する能力があれば、必ずしも赤色を識別できなくても生き延びる ことができた証と解釈できます。
一般に、男性の視覚は遠いものと動くものが良く見え、女性の視覚は 色の識別と近いものが良く見えるといわれます。現代の私たちのDNAには、 生存競争を生き抜いてきた証となるような視覚特性が刷り込まれているのです。
●色とは何か ② : 文化としての色
虹の色が7色だということは、日本では常識ですが、欧米では6色の方が 普通だといわれます。また、日本で「PINK映画」と呼ばれる映画の ジャンルがありますが、アメリカでは「BLUE FILM」、 中国では「黄色電影」、スペインでは「Cine Verde(緑)」と表現されます。 「所変われば色変わる」といったところでしょうか。
ところで、「色彩調和」と「COLORHARMONY」の違いはご存知でしょうか。
日本での「色彩調和」は同系の配色をさすイメージが多いのですが、 その逆に、欧米での「COLORHARMONY」は反対色の組み合わせからイメージされます。 このHARMONYの語源は調和の女神である「HARMONIA」なのですが、この調和の女神は、 戦の神であるΑΡΗΣ(MARS)と愛と美の女神であるΑΦΡΟΔΙΤΗ(VENUS) との不倫の子であるといわれます。真逆の性格を持つ神々の落しだねが調和の女神なのです。 日本でも知られた画家であるシャガールは「すべての色の隣人は友達で、反対側は恋人です」 と表現して、同系色よりも反対色の方に強い魅力があると述べています。
色彩心理の千々岩英彰先生の研究調査である「世界の若者が好む色(1999)」からは、 アジアと欧米の若者の嗜好色に大きな違いがあることが分かっています。
私たち日本人の色彩世界は、明らかに「日本型」と言い切れる性格を持っているようです。
●色とは何か ③ : 虚構の色
皆さんは赤紫という色を識別できるはずです。同時に、光のスペクトルが 赤から紫までの分布であることもご存じです。となれば、物理的には 赤紫という色光が存在しないのに、赤紫という色を見ることができるということになります。 これは、赤紫という色は、赤い光と紫の光の両方を知覚して、心の中で作られる色だからなのです。 色というものは、物理的存在として外にあるものでもあり、心理的存在として心の中にあるものでもあるのです。
人の眼の中に、盲点と言う映像が映らない場所が存在しますが、普段の生活では気づくことはできません。 人の視覚は、盲点を気づかせないように、周囲の視覚情報を利用して映像で埋めてしまう能力を持っています。
実は、私たちの視覚は網膜からの情報を基にして脳からの補完情報で構築されています。 ある説によると、網膜から受け取った3%のリアルな情報と、脳が創った97%の情報で視覚的世界が 形成されるとありました。私たちは自分の見たいものだけを見ているのでしょうか。
●色とは何か ④ : 自分の色
私たちは、心とDNAに刷り込まれた“色”を持っています。“色”は育った文化や環境によって異なります。 そして、“色”が個人の心の中に存在するものであり、その個人の積み重ねた経験によっても異なるとなれば、 “色”は“自分そのもの”でもあるといってもいいのではないでしょうか。
ここで、「色=私」という結論でこの文章を終えることにいたします。
ところで、人が一人では生きることができない社会的な存在であるとするなら、 「私という色」は、社会と離れて存在することはできません。今さら「COLORHARMONY」を望むことは無理ですが、 多くの「色彩調和」を求めながら、私の迷い道はまだまだ続くようです。