3.うつろう色

大衆化されたファッションという視線で眺めれば、日本が世界一のファッション大国であることには異論が無いと思います。東京のストリートファッションは、エレガンスの王道を歩む世界のクリエイターからも注目されています。カラートレンドの存在とその積極的な利用も、日本というファッション大国の性なのでしょう。

 

変化に親しむ日本人

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、
   
かつ消え、かつ結びて、ひさしくとどまりたるためしなし(方丈記1212?)
月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人なり(奥の細道1702
沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理をあらわす  (平家物語13世紀後半?)

 

上記の文学作品は、日本人なら一度は接したことがあるはずです。このように、日本の文学において、人生を旅や自然の移り変わりに見立てる例は枚挙の暇がないほどです。

 

We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.(私たちは夢と同じ糸で織られていて、ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる)

 

この言葉は、シェークスピア最後の作品である「テンペスト」(1612年頃初演)のプロスペローの台詞なのですが、世界でもっとも著名と思われる劇作家シェークスピアにして、日本的な人生の捉え方といえるこのような表現は、これ以前の作品では見受けられなかったように思います。

日本人の一人一人が自然にもっている、変化に親しむ人生観や感性は、やはり世界でも独特のものなのでしょう。一般に、日本人は変化するもの、消えてゆくものに美を感じる特殊な民族といわれますが、堅牢な石の文化圏を築いた民族たちとは、明らかに異なる感覚を持っています。日本人は古来より、変化とともに生きてきたのですから。

 

「ライフスタイル」を消費する日本人

変化とともに生きてきた日本人にとって、マーケティング分野において多用される「ライフスタイル」という言葉は、その意味するところに世界とは大きな隔たりがあるように感じます。結論からいえば、現在の日本人にとって、「ライフスタイル」とは消費するものであって、成熟するものではないといわざるを得ません。

昭和48年に放映されたTVCMでの「金曜日はワインを買う日」というフレーズが、当時流行し、金曜日にワインを買って家路に急ぐサラリーマン(?)の姿が出現しました。このCMのおかげもあって、日本人の日常生活に初めてワインが普及することになったのですが、この時点をもって日本の家庭に定着したわけではなく、一時の過熱で終了して以降、ワインには数度のブームが起きているのはご存知の通りです。昭和50年代のリゾートマンションブームにおいても、その過熱振りにもかかわらず、リゾート生活というライフスタイルは定着することなく終わってしまいました。

日本人の生活が成熟していないあり様は、マンション分譲パンフレットのレイアウトによく現れていないでしょうか?“LDKに和室が一つ・・・の基本レイアウトは30年前からほとんど変化していません。生きざま、暮らしざまが直接投影される住宅のレイアウトに個性が生じないのはなぜなのでしょうか?少なくとも、新築マンションの部屋にカーテンレールが完備された状態で販売される国は、世界では珍しい存在なのです。

もちろん、東京オリンピック以前にはそれなりの日本人的なライフスタイル像が存在してはいましたが、その後の「消費は美徳」に代表される、官民あげての消費の奨励が、そのスタイルを失わせていったのでしょう。

ドイツの建築家に言わせると、日本には「住宅産業が無い」のだそうです。日本の建築基準では木造住宅の法定耐用年数は30年程度なのですが、ドイツでは30年程度の年数は仮設住宅の耐用年数であるそうです。つまり、日本の住宅産業は仮説住宅産業だと判断されてしまうわけです。

第二次大戦において、ワルシャワ工科大学建築学部は、戦争により多くの文化遺産が失われることを予想して、ワルシャワの街の35千枚の図面を描いたと言われます。数値も記入され、原寸大の装飾品の設計図もありました。驚くことに、建物のひび一本まで忠実に描いたとされます。銃弾が飛び交う中で、学生がスケッチを描いたとも言われるこれらの図面は、戦後、ベッロットの絵画とともにワルシャワ復元の設計図として使用されました。そして、ワルシャワ市街は、元通りに復興されたのです。西欧の都市、建築、生活にはしっかりとしたライフスタイルが脈打っていることを思い知らされる出来事です。

以上の事例から、日本のライフスタイルが容易に変化すること、そしてその変化は、一過性のブームが多いことが判ります。つまり、現在の日本でもてはやされる「ライフスタイル」は、核となるものを持ちえず、成熟するほどの長期的なこだわりも存在しないということになります。けれども、マーケティング的な視点からみれば、有り難いことに、日本人は、商品としてのライフスタイル提案をいつでも受け入れてもらえる大切な消費者であるのです。

 

「うつろい」に込められる想い

「うつろう」と言う言葉には多くの想いがちりばめられています。時のすぎる想い、季節の巡る想い、決してとどまらない想い、栄枯盛衰の想い、花が散る想い・・・など、2000年にわたって日本人が感じ取ってきた、自然や人生や心の、とどまることの無い姿や定めを内包しているのでしょう。

日本の四季は、うつろうことを前提とした現象である故に、愛でる対象に成りえているとも言われています。花は散るからこそ美しいとする心情が、日本人の美意識です。西欧ではその逆に、自然を支配し、永遠に変わらないものを求める姿勢が見られます。石造りの建築は、永遠を求める手段の一つであるのでしょうか?日本人としての理想の住まいは、ある時期までは、方丈記に描かれたような、自然と一体になった、風が通り抜ける開放的な空間を意味したはずでした。

天変地異も含めて、変化することが常態とも言える日本の在り様と、それを当たり前に受け入れてきた日本人にとって、「うつろい」は、人生であり、文化であり、日本そのものなのでしょう。

2013年に行われる伊勢神宮の遷宮は、20年毎の行事として、およそ1300年にわたって行われてきました。この、建物を20年毎に建て替えることの意味はどこにあるのでしょうか?その理由として推測される幾つかの理由の一つに、清浄さを保つこと――老朽化すること=汚れることであり、神の力の衰えとして忌み嫌われるため、建物を新しくすることにより神の力を蘇らせることになる――を求めたのではないかと言われます。前述の、「うつろい」と呼ばれる変化の背景には、再生への願いが込められているのでしょうか?

 

遠近法/固定する視線とうつろう視線

絵画において、描写の対象である3次元の現実の事象を2次元平面に再現しようとする挑戦は、俯瞰図や陰影法などを通じて、古くから行われてきました。そして、ルネッサンスになって、「遠近法」と呼ばれる数学的な技法が登場します。

この遠近法は、情景を一つの不動の視線で切り取る技法であり、自然に立ち向かう姿勢として西欧が生みだした典型的な答えの一つです。さらに、情景を描写しようとする一個人の意欲と感性を、直接、客観的な数学的・物理的な空間へと定着させる技法でもありました。

薩摩焼十五代目の沈壽官氏は、自分の焼き上げた作品の評価において「一尺の見切り」と「一間の見切り」というものがある、と述べられています。「一尺の見切り」は、作品をつくっている自分から見た価値であり、「一間の見切り」は、その作品が愛蔵家の居住空間に置かれた時の価値であるそうです。これら一個人が持つ二つの視線は、主観と客観が交錯する視線でもあります。

杉浦日向子氏は、江戸の話の中で、浮世絵でよく評される「ありていに描きては興なきものなり」は、そのままに描いたのでは絵にする価値がない――これは、見る方のイマジネーションを刺激するような色であり、形でないといけないというプロフェッショナルの意識だと思う、と述べられています。ありていに描かないことの興は、写楽のデフォルメされた大首絵から十二分に伝わってくるでしょう。同じく、杉浦氏は、浮世絵のおかしな素晴らしさも指摘します。それは、一枚の画に、春から冬にかけての景色の移り変わりが描写されていたり、一枚の枕絵(春画)に、手足の部位がいろいろな方向を向いていて、一連の動作を一枚の絵に収め、しかも一瞬の姿をとらえるのではなくて、数十分の時間の経過があの一枚の絵の中で表現されているとも説明されています。この様な技法は、絵巻物の時間描写と同じく、固定的な視線を超えて、うつろいを描きこんだものでもあったのでしょう。

 

ときのうつろい

それにしても今では、ダメージ加工やケミカルウオッシュ加工が施されていないジーンズを見ることができなくなりました。着用した結果として、色があせた自分だけのジーンズへの愛着は理解できるのですが・・・。擦り切れた新品のジーンズには、若者のうつろいに託す心情が投影されているのでしょうか?

京都に、茶事で使用される楽茶碗を代々焼いてきた樂家の所蔵品が展示された樂美術館があります。ここでは、月に1度、特別観賞会が開かれて、樂家歴代の所蔵品を直接手にすることができるのです。この観賞会に参加して聞いた学芸員の方の丁寧な説明の中で、「土を90年寝かす必要があるので、現在、当代(十五代)が掘っている土は、少なくとも二代後の方が使用されます」と、「この茶碗は150年使用されてきて、ようやく良い色になってきました」と言う、二つの説明が耳に残りました。この説明からは、良い色になるには、都合240年という年月が必要だったことになり、日本の美意識におけるときの概念の深さと贅沢さに絶句させられたものです。

 

歴史教育にあらわれないファッション大国

日本は今現在、世界一の大衆ファッションの国と言えると思いますが、実はこのファッション大国の歴史は、江戸時代から繋がっています。

当時の江戸は、現在と同じく、大衆におけるファッション文化が世界に先駆けて花開いていたのです。特筆すべきは、ファッション・メディアが存在したこと。大衆のものだった浮世絵は、産業としてのファッション情報の伝達システムでもありました。そのシステムがあってこその、明和や寛政の3美人などに代表されるファッションアイコンの存在とその人気。越後屋などの商家が出版する、現代のファッション・マーケティングの事例そのままのファッション・ポスターとしての浮世絵の数々。これらのメディアからのファッション情報を受け入れ、流行を楽しむ江戸の庶民・・・。

一般的に、ファッションの歴史では、洋装の歴史の中で、貴族文化の服装が下層階級に普及し、市民文化の成熟が大衆ファッションを成立させていったと理解されています。けれども、現代ファッションと比肩できる大衆ファッションを実現させていた江戸期のファッション社会を抜きにして、ファッション誕生の歴史を語ることができるとは思えません。

加えて、江戸期においては、このような高度な文化は決して江戸だけに集中していたわけではなく、文化と経済の中心地である大阪や京都、加賀百万石のおひざもと金沢をはじめ、各藩それぞれにおいて生活文化が花開いていたことも事実なのです。

今では、行き過ぎさえ指摘されるファッション大国日本DNAは、17世紀に始まる、大衆によるファッション大国日本から脈々と伝わっていたのです。ファッション都市江戸では、お米やキセル、袋物など多くの生活財に、現在に見られるようなブランド指向が存在したことが記録されています。この当時、芝居小屋は最先端の情報が詰まった流行発信基地であり、舞台で役者が纏う衣裳を真似た着物が日常のおしゃれ着となり、様々な文様、柄が生まれています。色彩分野では、歌舞伎役者に模した流行色の記録が多く残っていて、大衆が流行現象を謳歌していたことが証明されます。

現代の日本人が流行に注ぐ高い関心は、個々人のDNAに連綿と受け継がれた変化への憧憬に他ならず、この変化を求める姿勢は、四季の移り変わりを愛でてきた日本人の自然を尊重する姿勢に他ならないのです。

 

ベーシックという名のファッション

日本人が、世界でも珍しい高度なヴィジュアル感覚を所有していること、さらに変化を常として生きてきた歴史が、現在のファッション大国日本を形成している基盤となっています。この変化を求める姿勢は、実際のファッション現象によく表れているのですが、その典型的な例は、日本のベーシック・ファッションはファッションの一部だということです。

日本の店頭では、ベーシック・アイテムのはずのシャツブラウスは、流行によって現れたり、消えたりします。特定のライフスタイル・ファッションを標榜するブランドを除いて、流行となれば、せっせとベーシック・アイテムを揃え、次のシーズンには店頭から消し去っている状況は、日本では日常の光景となっています。このように、日本においては、ベーシック・アイテムすらトレンド・アイテムとして扱われているのです。

 

刹那のファッション

ファッションの担い手が、業界から離れて消費者の手に移った1990年を境に、ファッションは大きな変容を余儀なくされました。この年、トラッドの中心アイテムだった「紺ブレ」が、カジュアルファッションの1コーディネートアイテムとして大流行して、それまでファッションで重視されてきた服装のルールや様式が意味の無いものになってしまいました。ここで、業界の対応は大きく変化することになりました。消費者が服装のルールを定める、単品コーディネートの時代に完全に移行したのです。以後、ファッションに求めるものは、社会のルールではなく、「自分」であり、その後、ファストファッションの隆盛を追い風に、「今」という刹那の価値を追い求めるに至ったのです。

21世紀直前の2000年、毎日新聞が実施した日・米・仏・韓4カ国の中高生の意識調査によると、日本の学生は社会満足度が極端に低く、将来の見通しも同様に、極端に悲観的であることが実証されています。このように、社会に期待できず、未来も持ち得ない日本の若者にとって、ファッションは、今現在のを実感させてくれる刹那のファッションであることに意味と魅力があることになります。彼らが見せる、継続や成熟を求めない姿勢は、まさに日本人の持つ変化への憧憬、うつろう自然観の極まった先にあるもののような気がしてなりません。

 

ファッションカラーを楽しむ

日本のファッション市場が画一的であることは、百貨店のフロアに行けば一目瞭然です。どのブランドも(と言っていいと思われますが)、同一トレンドを指向しているかのように見えてしまいます。そしてこのトレンドさえも、一シーズン毎に総とっかえされているように感じます。

日本の多くのアパレルがトレンドビジネスを指向していることは自明のことです。欧州のように、1ブランド=1メゾンであれば、クリエーションを重視したオリジナル路線を守り伝えることが可能ですが、1社で数十のブランド展開を行う日本のアパレルが、クリエーションビジネスを行うことは困難でしょう。

その一方で、このようなトレンドビジネスの氾濫が、日本の消費者が望んだ結果でもあることは言うまでもありません。消費志向に沿わないアパレルが成長することは無いはずだからです。

トレンドビジネスとくれば、当たり前ですが「トレンドカラー」が重視されます。日本ではカラートレンドは、ファッション領域を超えて、車や携帯に反映されています。四季の変化を積極的に受け入れてきた日本人は、ファッションカラーの変化を楽しむDNAを必要以上(?)に身に備えているのです。

 

ゆるやかな全体主義の中での自由の謳歌

真理と永遠を指向する西欧と、曖昧と変化を旨とする日本において、そのファッションも対極に位置しています。それは、「個人主義的社会を背景にした、ルールと階級に縛られた大人のファッション」と「ゆるやかな全体主義の中での、自由で個人的な若者のファッション」の対比とも、表現できるでしょう。

ある服飾系学校の生徒たちに、「東京のストリートファッションの聖地は?」と質問したところ、「原宿」がふさわしいとする結論にまとまりました。その最大の理由は原宿の自由さだと言うことなのです。つまり、何でも許されることが東京のストリートファッションを形成したことになります。今では世界の「HARAJUKU」となった理由がここにあります。

現在の日本社会を欲望を開放する社会と呼んでもおそらく間違いではないでしょう。階級や服飾ルールも実質的に存在することもなく、少なくとも肌を露出しても、即、襲われるような社会状況でもありません。わがままとさえ言い換えられる自由が、タブーなきファッションタブーなきカラーの氾濫状態を生んでいます。そしてこのタブーなきファッションの斬新さや面白さが「COOL-JAPAN」として、世界中の若者やファッション関係者の目を引きつけていることも事実なのです。