CBNからの覚書き/環境色彩計画

環境色彩計画01 地方色を探して

1960年代中頃まで、日本の建築物等の色彩計画は、戦後アメリカから導入されたカラーコンディショニングという手法が使われていました。これは色彩の機能主義的な考え方で、工場等の建築内部で人がより効率的に働けるように考え出された手法でした。そして、僕が大学生活を送っていた、60年代の終り頃、建築の外観を鮮やかに彩色するスーパーグラフィックという運動が世界中で起こりました。カリフォルニアに建設された住宅の内外装に、グラフィックデザイナーのバーバラ・ストウファッカー・ソロモンが鮮やかな色彩と大きなサインをデザインして、色彩計画の新たな流れをつくり出しました。日本でも1969年に画家の重田良一さんが、顔料メーカーの工場の煙突に鮮やかな色彩で大きなグラフィックを描き話題になりました。スーパーグラフィックは、建築色彩を機能主義的な面からのみ考えていた日本の色彩計画の方向を大きく変換する力を持っていました。このスーパーグラフィックが建築の外観として展開されると、すぐにいくつかの景観論争が起きています。日本でも千駄ヶ谷に建てられた、真っ赤な壁面に黒い文字でと描かれた東京家禽センターも景観的な是非が問われました。それまで都市の建築物の色彩は、建築主や設計者が比較的自由に決めることが出来ましたが、都市空間における色彩の意味が問われるようになりました。

 

スーパーグラフィック運動が実験的な新しい色彩空間を次々と実現していく時期に、沖縄の環境色彩調査が行われています。これは、カラープランニングセンターが千葉大学の湊幸衛さんと重田良一さんに依頼して実施したものです。重田さんは後に色彩の地理学をまとめたフランスのカラリスト・ランクロさん(J.Ph.Lenclos)とも親交があり、沖縄の色彩的な特徴を捉え、表現することにも長けていました。僕は大学を出て研究室で教務補助員として働きながら、カラープランニングセンターでアルバイトもしていたので、この色彩調査の展示を手伝いました。この展示は1973年に銀座松屋のグッドデザインコーナーで開催されたと記憶していますが、重田さんが制作した沖縄の海からまちへと続く景観を色彩でとらえたカラーイメージスクロールと、沖縄の民家のカラーブロックモデルと色彩調査資料が並べられました。僕は大学の友人たちと徹夜して沖縄のカラーブロックを塗装して仕上げました。屋根や腰壁等の部位に分かけられた木製のブロックを積み上げると、300程度の立方体になります。積み木のようなブロックは様々に置き替えて沖縄の民家の配色のヴァリエーションを試すことも出来ます。

 

この展示会には、デザイン界に大きな影響力を持っていた勝見勝さんも来てくれました。そしてこのカラーブロックを見て「真面目過ぎて面白さが足りない。ブロックにへのへのもへじの落書きでも描いておいた方が面白い。」という言葉をくれました。環境色彩を広く伝えていくにはこのようなことも必要だったのでしょう。この沖縄の色彩調査発表あたりから、単体としてのスーパーグラフィック表現を超えて、地域の色彩の在り方が少しずつ議論されるようになって行きました。地域の個性ある色使いを地方色とか地域色という言葉で伝えようとしましたが、地方色という言い方には、近代化する都市が田舎を揶揄するような意味合いも残っていて、環境色彩計画のコンセプトを伝える言葉としては定着しませんでした。

                                      色彩計画家 吉田慎悟