CBNからの覚書き

日本における「カラリスト」雑感

「カラリスト」という言葉に遭遇

カラリストという言葉を初めて聞いたのは、私がJafcaに入って間もない頃だった。1979年と記憶している。「colorist」という英語は昔からあり、意味は「色彩使いに優れた画家。髪の染に特化した美容師。」とある。

当時、アパレル会社の最大手であったレナウンの情報室で活躍していた市川秀子氏(故人)は、ファッション業界では「カラリスト」と呼ばれ、各種ブランドの先行カラー開発とカラーマーチャンダイジングを担当されていた。当時のJafca事務局長であった太作陶夫氏は「本来カラリストは、例えばゴーギャンなど、カラーインパクトを強く感じさせる画家を指すんだけどね。」などと話していたのを記憶している。太作氏は、市川氏をJafcaに引き抜き、その同年に私はJafcaに入社したので、市川秀子さんから「私たち、同期だからね!」などといろいろご指導いただいたのを思い出す。当時はファッション業界でもJafcaのような色彩専門組織にかかわりのない人々には、「カラリスト」といってもほとんど通じない言葉であった。

 

「カラーミービューティフル」の上陸

アメリカにCAUSという色彩組織がある。「The Color Association of the United States」の頭文字の組織である。Jafcaと同様にカラートレンド情報を刊行している民間団体である。1980年代はJafcaCAUSは互いに情報交換をしていて、CAUSNews Letterという情報冊子があり、よく目を通していた。1980年のある記事に”personal color consultant”という文字を見て記事を読んでみたら、今でいうカラーアナリストの記事であった。「さすが、アメリカ。そんな仕事も成立しているのか」と大変驚いたことがある。その驚きも冷めない頃、「近々、Color Me Beautiful というカラーコンサルタント会社のキャロル・ジャクソンという代表者が日本で記者会見をやるので、取材してくれ」という上司の命令。キャロル・ジャクソン氏の説明では「『ヨハネス・イッテンの調和論』を基礎に置き、クライアントの肌色などから4シーズンにタイプ分類しコンサルタントを行う」という内容であった。

 

カラーコンサルタントの広がり

カラーミービューティフルの同業者もほぼ同時期に現れたが、カラーコンサルタントは産業界のデザイン・色彩開発ビジネスではなかったため、Jafcaとの関わりはほとんどなかった。やがて、日本では「カラリスト」という言葉の意味として、これらカラーコンサルタントが呼ばれるようになった。ただ、「カラリスト」には、元々「画家や美容師」という意味があるため、より正確な意味で「カラーアナリスト」(個人に似合うカラーパレットを分析する人)という言葉も普及することとなっていった。

また、米国のロバート・ドアが20世紀初頭に考案したイエローベース(イエローアンダートーン)、ブルーベース(ブルーアンダートーン)のカラー調和を唱える「カラーキー・プログラム」を基礎とした組織もあり、同様にカラーコンサルタント(カラリスト)として活躍している。

 

「環境色彩計画」と「カラリスト」

カラープランニングセンターという組織がある。このカラープランニングセンターは、任意団体として活動を始め、設立メンバーに永田泰弘氏がおり、1975年には若き吉田愼悟氏も在籍していた。環境色彩という言葉も当時は珍しい言葉で、説明しないと理解が得られない時代であった。「色彩計画」自体はわかるが、「色彩」がそこまで大きな対象だと思うものはまだ少なかったためである。やはり1980年代初期だと記憶しているが、群馬県高崎市駅前にオープンしたBic Camera の店舗ビルの色彩トラブルも環境色彩の普及に一役買った事件であった。ビルの色が蛍光オレンジということで、近隣のビジネスマンや居住者から、気分が悪くなる、仕事に集中できないなどのクレームが相次ぎ、ビルの色を黒系に変更するという事態になったものである。当時、環境色彩の対象地域は、景観保存や改善を目的としたもので、京都、神戸など数える程度の地域であった。ところが、この高崎市のBic Camera”事件を発端として、環境色彩への関心が高まっていく。吉田慎悟氏を指導したフランスの環境色彩計画家のジャンフィリップ・ランクロ氏の「色彩地理学」という環境色彩のインスタレーションが行われたのも1980年代初期で、環境色彩計画家(カラープランナー)も「カラリスト」と呼ばれるようになっていった。

このように、日本における「カラリスト」は、1980年代初期から色彩関連の職業として徐々に認知されていった。

 

「カラーコーディネーター」と「カラリスト」

カラリストという職能が認知され、それを職業とする(またはその意思がある)人たちの増加に呼応して、主に服飾専門学校の組織である「社団法人全国服飾教育者連合会」が1990年代中期に「色彩検定」を立ち上げ、また、ほぼ同期に東京商工会議所が「カラーコーディネーター検定」を立ち上げ、合算で年間受験者が10万人を超えるほどの人気検定となり現在に至っている。デザイン業務自体の社会ニーズは、検定合格者のすべてを受け入れるほどのキャパシティはないため、プロとして活躍していくためには、対産業界および対個人のコンサルタントとしての高度な技能と接客技術および経験が必要とされる分野でもある。

なお、カラーコーディネーターとカラリストは、現在の日本ではほぼ同義といってよい。

文化学園大学教授 大関 徹