CBNからの覚書き/環境色彩計画

環境色彩計画02 環境色彩計画の夜明け

建築色彩を機能主義的な考え方で進めたカラーコンディショニング(色彩調節)が衰退していく1960年代の中頃、入れ替わるように建築外装に高彩度色を大胆に使ったスーパーグラフィック運動が起こりました。スーパーグラフィック作品として記念碑的な存在となっているカリフォルニアのシーランチ1966年に発表されていますが、同じ頃、日本でも沢山のスーパーグラフィック作品が実現しています。顔料メーカー大日精化のカラー煙突もこの頃完成していますが、このカラー煙突は画家の重田良一さんの作品です。重田さんはその頃、曲面に絵を描くことを続けていましたが、カラープランニングセンターの専務理事であった海上雅臣さんは、この絵をシリンダー状の大きな煙突に展開することを提案しました。その提案を受けて、1967年に重田さんは10点ほどの煙突絵画の模型を作り、その中の1点が実現化しています。フランスでランクロさんが建築の内部空間に大胆なカラーデザインを展開し、公に発表して注目されたのもちょうどこの頃です。

 

1970年にランクロさんが大阪万博の仕事で来日し、大日精化のカラー煙突を見て、その写真をフランスに持ち帰って多くの人に紹介しました。そして日本のカラー煙突はヨーロッパの美術誌や建築誌に多く掲載されましたが、日本での評判は控えめだったようです。

 

後にパリのポンピドーセンターでスーパーグラフィックの大回顧展が開かれ、フランスの学芸員が日本の当時のスーパーグラフィックの状況をヒヤリングしましたが、その際に重田さんの家の倉庫に眠っていたカラー煙突の模型が見つかりました。この模型はポンピドーセンターで開催されたスーパーグラフィックの回顧展に展示され、今はポンピドーセンターが所蔵しています。

 

重田さんは大日精化の東京工場のカラー煙突を手掛けてから、同じ大日精化の東海工場や大阪工場の建築物やタンク等の色彩計画を行っています。そして1973年には沖縄の色彩調査を行い、那覇に建てられた建築の外装色彩計画も実施しました。さらには鹿児島県が進めていた鴨池海浜ニュータウンの色彩調査から提案も行っています。

 

重田さんは画家として多くの絵画作品を残していますが、若い頃フランスやアメリカの大学にも留学しており、色彩についても幅広い研究をしていました。そしてその頃からランクロさんとは親しく交流していたようです。そのような交流を通してランクロさんの活動を早くから評価して、日本にカラリスト、ジャン・フィリップ・ランクロを紹介しました。

 

重田さんは、建築色彩の新しい可能性を探求したスーパーグラフィック運動に参加しましたが、同時にランクロさんがつくり出した環境色彩調査の有効性をよく知っていて、沖縄の環境色彩調査を実施し、さらに鹿児島の鴨池海浜ニュータウンで、実際に色彩の展開方法を示しました。それは、単体としての建築色彩の表現の可能性を探るスーパーグラフィックの手法を超えて、地域の特徴的な色彩を探し出してニュータウンに移植する環境色彩計画でした。環境色彩計画はその後、活動が活発化した都市デザインと繋がって広く展開して行きますが、重田良一さんはその環境色彩計画の基礎をつくった人でした。

                                      色彩計画家 吉田慎悟